3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2568)

 浄土論(願生偈)の一節に「衆生所願楽 一切能満足」(衆生の願楽する所一切よく満足する)(国土荘厳17種の17番目)があります。浄土の徳(はたらき)を示し、東本願寺の解読浄土論註,下巻では、「我が国土(浄土)では各人の起こすいろいろな欲求に沿いながら、さらに深い存在自体の願いを満足せしめよう」と説明されています。
 児玉暁洋師がこの文章の説明に、「衆生の願楽する所、一切よくを満足する」は浄土の徳を表現していて、その心は「本物(仏の世界、浄土)を欲する意欲に生きるとき、本当の満足が与えられる」と説明されています。仏の世界(浄土)に行きついたのではなくて、往生浄土の歩み、本物を目指して、往生浄土の歩みをする歩みの途中に本当に満足の世界が恵まれてくるのですと。これは浄土の徳というか仏の智慧の世界を示していると受け取っています。
 「浄土とは何か」というと、細川巌師は「仏の働きのはたらいている場」なのだと教えてくれました。仏が南無阿弥陀仏となって智慧といのちを届けたいと働いているはたらきを感ずる場、浄土を感得する者は、私たちの願うところが一切を満足するという(願いの質的変革が起こる)、本当にそこに「足るを知る」という世界に出させていただくのです。
 いうならば、「人間に生まれてよかった。生きてきてよかった」といって人生を生ききっていけるのです。そういう智慧をいただく、そういう智慧を感得する場がお浄土なのです。そこでは自然と「存在の満足」という世界に導かれていくのです。(拙稿:松ヶ岡文庫研究年報 第29号(2015年)p29−58掲載)と受け取っていました。
 最近、私のお育てを頂いた僧伽(土曜会、細川巌ご夫妻の創設)の土曜会通信(734号2025/2月号)の赤宗正俊師の講義概要を読んで、本願の第46,47,48願について触れて、46願は「聞我名字」、47願は「聞法」、46,47,48願は「聞」が貫かれている、それで師はこれらは「聞法における不退転が願われ」、そして第48願では聞法不退の無限精進の相が詳しく誓われている」ことを書かれていて、ちょっとびっくりと同時に納得させられました。同時に私の浄土の受けとめの不徹底さを知らされました。
 浄土の受けとめは本派と大谷派で受けとめに相違がありますが、「死」というポイントで本派は往生浄土即成仏と受けとめ、大谷派は往生浄土を信心決定からの過程と受け止め、「死」で大般涅槃を超証するといただいていると受け止めているようです。世間の医学でいう「死」という時間に、世間とは異質な世界に仏教の往生浄土を無理やり合わせようとする本派の受けとめに違和感を覚えていましたが、この度の赤宗師の受けとめに、私の受けとめの不足と新たな認識が出来て、そのことへの納得を得たのです(知的な納得でよいかどうかは今回触れません)。
 聞法してゆく歩みの中で譬えでいえば、川が上流から下流へ、川幅を大きくしながら流れて行き、ついに海や湖にたどり着きます。仏の智慧をいただく信心の受けとめにおいて、湖か海にたどり着く味わいのようなものを無意識に思っていたのです。信心を獲る目的地を想定して、たどり着くことを無意識に思っていたのです。それは私の受けとめの思い違いと不十分さを知らされたのです。それよりも児玉師が「往生浄土の歩みをする歩みの途上に」知足の味わいをいただいて歩み続けることの大切さ言われていたのでした。「聞法における無限精進の歩みが大事である」ことを再認識させられたことです。
 梯実圓師が往生浄土を身体的な「死」を境にしてどうだと問題にするよりは「現生正定聚」という受けとめをしっかりする方が大切だと言われていたことを教えていただいています、それなりに「そうだ」と思っていたことを再確認させられた思いで、モヤモヤから解放されたように感じを持つことが出来ました。
 赤宗師は彼自身、及び先輩方のその受けとめやその理由を紹介されています。
 暁烏師は「法というものは、自分がその中に生まれてゆけばゆくほど聞きたくなるものです。私はわかったからもう聞かないでよいというのは、まだ法の中に入らぬのである。わかればわかるほど聞きたいものだ。」と言われます。
 曽我先生は、「仏法には入門はある。しかし卒業はない。」と言われています。岡本義夫師は、聞法をやめたいと思うとき、やめられるのと止められないとの違いがある。ひとたび真実信心に目覚めたら、いくらやめようと思ってもやめれないのだ、と言われています。
 赤宗師自身も、「正定聚」の「聚」は法の友のあつまりです。法を求めてやまないよき師よき友のおられる僧伽の一員にならせていただくと、その人たちの聞法精進の情熱に感化されるわけです。釈尊に出遇った阿難のように、世自在王仏に出遇った法蔵のように、法然上人に出遇った親鸞聖人のように、私たちを圧倒する「聞法不退」を体現した善知識との出遇いによるのです。その出遇いにおいて、善知識の智慧による絶対否定を受けて「我」が破られるところに、求道心が解放せられて、思わずしらず聞法者たらしめられるのです。何かを掴んで腰を下ろしてしまったら、溌溂としたいのちの「今」を失ってしまいます。「今も精進の真っ最中、永遠に道半ば」というのが、充実したいのちということではないでしょうか。
 暁烏師は、不退転とは「不退の転」であると言われ、「不退の転とは、退かずして転ずるということで、即ち常に前進するということであります。」と言われるのです。
 羽田師は「不退の意味は、信心の人は現生において、常に精進の生活ができるようになるということなのです。」と言われ、さらになぜそのようなことが可能になるのかということで二つの理由をあげておられます。一つは「仏智を得る」からであり、もう一つは「法の友を得る」からです。不退転は「正定聚不退転」というように正定聚と同じ意味です。「正定聚」の「正定」は正しく定まるということで、幸福を求めて大事なことがたくさんある私たちに、真理認識のみを動機とするような、つまり聞法を第一義とするような正しい人生・生活の方向が定まるということです。これは仏智を得て、「我」が破られるからです。それで順境にも逆境にも求道の歩みが止まらないのです。正定聚の無限なる精進の願いが出てくることが、仏教における救いなのです。
 さらに、譬えでは、十七願は妙薬の完成が、十八願では衆生がその妙薬を服用して病からの回復の兆しを得ることが、十一願では完全な回復への力強い人生を歩むことが願われているのです。ですから聖人によれば、本願が願う証果は正定聚なのです。聖人は証巻では「煩悩成就の凡夫」の証果を「大乗正定聚の数に入る」と言われているのです。(島地聖典12−118、東聖典280)

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