4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2569)
「言葉」への執着を超える受け止め、仏教の「唯識」
私達は日常的に言葉で実体的にとらえて名前を付けて理解し、言葉で思考します。日常の言語活動こそ、言葉による実体化です。そして言葉への執れが生まれます。
言葉の実体化とは、普段の会話で「風が吹いている」と言います。「風」は主語で、「吹いている」が述語動詞という構造です。しかし、「風が吹いている」を少し考えて見ると「風」というものがどこかに存在していて、それがどこかから吹いてくるのですかね。風というものを想定するならば、吹き始める前の「風」というものがどこかに無ければ「風」という主語の証明になりません。日本語での思考は無意識のうちに「言葉」が示すものを実体化して受け止めるという働きが潜んでいることを見出したのが唯識の思想です。
「風が吹く」と言った場合に私達が事実として認識しているのは、「吹いている」それが「風」ということです。「吹いている」状態にある空気、その「はたらき」があって、初めて認識します。この働きを重要視して、この働きこそ私たちの言語活動の原因があると見出したのが「唯識」の思想で、「識」という概念です。
働きや作用を、一般的に「識」と言います。ここでは「心の働き」です。これを重要視して、「識」の働きに自分の存在あるいは世界の存在を見出していくのが、この唯識の思想です。
唯識とは:アーラヤ識の発見(紀元4−5世紀)
日常生活で、目・耳・鼻・舌・身の5感を通していろいろな対象物を捉えていきます(眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(触覚))。6番目に意識(判断、分別するはたらき)、そういう認識が心のはたらきです。目に見える部分で日常経験的に認識することとは別に,現象的に現れてくる心のはたらきのもっと奥底に、心のさまざまな働きそのものを支える、無意識的潜在的に働いている識(心のはたらき)があるということを、唯識派の人たちは発見しました。これを「アーラヤ識」と言います。アーラヤ識という無意識的潜在的に働いている根源的な心のはたらき、深層意識を見つけていきました。
アーラヤ識の「アーラヤ」は、インドの古典語であるサンスクリット語です。「アーラヤ」は、もともと「倉庫」や「蔵」という意味を持つ言葉でした。識の名前として「アーラヤ識」と付けられた場合には、そこに蔵や倉庫のように情報が収まっていると考えられています。過去の言動や過去世の様々な行為の積み重ね、仏教では「業」と言います。そのような業の蓄えられた場所のことを「アーラヤ識」と言います。
このアーラヤ識によって、私たちが見ているこの世界、さらには、私たちの個人個人の存在、自己存在、生命というものも、すべてこのアーラヤ識に集約されていて、この「アーラヤ識」と呼ばれる潜在的な意識によって、私達という存在ができているし、私達が見ている世界もアーラヤ識によって生みだされたものだという考え方を発見しました。
つまり、今見ているこの世界は、アーラヤ識によって作り出された虚構の世界で、アーラヤ識の潜在的なはたらきによってそういうものを見せられています。私たちが見る世界が、虚構の世界としてアーラヤ識が作くり出しているものである一方、アーラヤ識は、自己存在、煩悩に満ちた個人個人の私たち人間存在のよりどころとも考えられています。このようなアーラヤ識を中心とする唯識の思想の「唯識(この世界はただ識のみ)」の「識」は、このアーラヤ識を指します。
人間存在をどのように捉えるか
アーラヤ識を中心とするいろいろな認識を支える「心のはたらき」、「識」だけがそこにあります。「吹いている」それが「風」である、という作用すなわち識に目を向けていったのが唯識という思想です。
人間存在、今生きているという私の生命ということをどのように考えるかというと、「吹いている」のが「風」というように「生きている」のが「私」であると考えます。「私」という主語は、仮に立ち現れたものに過ぎない(無我)と考えるわけです。どのように生きているかというと、「縁起の法」でカンジス川の砂の数の因や縁が仮に和合して存在していて無常・無我というように必ず壊れる(エントロピー法則)細胞の塊としての身を、細胞レベルで壊れる前に自分で壊して、再合成して生命を維持している、のが人間の生命のあり方です、一刹那ごとに生滅を繰り返しながら生命を維持している存在ということです。それを包括しているのが、その作用、はたらきの方ではないかと識のはたらきの存在を見出していきます。
すなわち、「生命」は「生きているはたらき」でもあります。だから、「生命」という主語があって、それに基づいて生きているのではなく、生きているそれが「生命」というように、はたらきを見て「生命」というようものを明らかにしていきます。
生物学者の福岡伸一は「動的平衡」という概念を提唱して、次のように説明しています。{西田が「絶対矛盾」や「絶対無」と言うときの「絶対」とは、「相反する二つのこと、逆方向の力の作用が、同時に存在している」という意味なのです。つまり「絶対矛盾」とは、矛盾する二つのベクトルが同時に存在しているということです。「絶対無」とは存在と無が同時にある場所、二元論では割り切れない、有るようで無いという概念を意味します。西田が「生命とは絶対矛盾的自己同一である」と言っているのは、相反する作用を同時に含むものが生命であるということ。つまり合成と分解、あるいは酸化と還元という逆方向の反応を絶え間なく繰り返しながら平衡状態を保っているという動的平衡の生命観とつながったわけです。}
私たちが生きているということは、いろいろな作用に基づいて生きています。すなわち、感覚、知覚、認識、思考作用などいろいろなものが、あらゆるあり方で、今、識としてはたらいていると考えます。これこそが、私たちが生きているという事実で、唯識派の人たちは、これを識の構造として理解していったのです。
識の構造(八識構造)
私が見ている世界もすべて識の立ち顕われたものにすぎません。「風が吹いている」のように言語活動によるのは全て虚構です(不自然に実体化してとらえている)。私が生きていて存在している、そういう存在しているものとは何かというと、識がはたらいているという事実しかありません。仏教の唯識では「縁起している」と言って、唯識派独自の縁起思想が語られます。
それを日常生活の思考では、ことばが対象化され、存在が実体化されていきます。そして、私が今、机や椅子を見ている、あたかも存在があるかのように存在が確定されます、それは全て識がはたらいているからです。言葉による虚構世界や言葉によって対象化される存在物はすべて一瞬一瞬変化して無常の存在を固定して存在すると認識しているのです(日々の生活では多くはその認識で間に合うのですが、正確には誤解しているのです)。
基本的に心の深層に潜在的にはたらいている識として、7番、マナ識(染汚意、未那識)。8番、アーラヤ識(阿頼耶識、蔵識)………八識の構造で語られる存在が、すべて迷いの構造です。
八つの八識構造は最終的には全てはアーラヤ識に包括されます。アーラヤ識を始めとする八識構造によって、私達は、日常生活をことばによる執着として見るし、今、目で見えている世界、あるいは人間の自分の存在を虚構として見ています(この世に“常楽我浄”は無いのに、有ると考えています)。(続く) |