5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2569)
日常生活で、目・耳・鼻・舌・身の5感を通していろいろな対象物を捉えていきます(眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(触覚))。それらを統括して6番目に意識(判断、分別するはたらき)、そういう認識が心のはたらきです。目に見える部分の認識とは別に,現象的に現れてくる心のはたらきのもっと奥底に、心のさまざまな働きを支える、無意識的潜在的に働いている識(心のはたらき)があるということを、唯識派の人たちは発見しました。これを「アーラヤ(阿頼耶)識(第八識)」と言います。アーラヤ識という無意識的潜在的に働いている根源的な心のはたらき、深層意識を見つけていきました。
同時に前六識とアーラヤ識の間に第7、末那(マナ)識という領域を見出します。アーラヤ識を所縁(=対象)とする識(常に第八識を縁として生じる自我の錯覚。「意」識と区別してマナ識としています)で、前六識の背後ではたらくいわゆる、「私が」、「私が」と我を主張する自我意識です。
唯識の提唱したマナ識はアーラヤ識と異なり、生まれながらに持っている"こころ"ではなく、人間に生まれてから形成されるもので、成長するに従ってその存在感をいよいよ増してゆくものではないかと思われます。産まれたての赤ん坊は、アーラヤ識は持っていても、煩悩の原泉たるマナ識は未だ芽吹いていないと考えられます。マナ識は、恐らく人間以外の動物には考え難いものだと思われます。マナ識は他動物には無い『煩悩』を生み出す原泉であるからです。このマナ識はアーラヤ識の中に見出せる "生きようとする本能、生命を維持しようとする意志" を原泉として、人間に固有な無意識の心としてしかも独立的に位置付けたところに、欧米深層心理学には無い唯識の特徴があると思われます。
マナ識は、無意識に自分に執着する心と言い換えられます。そして、この心は、四六時中働いていると唯識は考えます。マナ識は執われの根本で、恒(間断なく常に作用する)と審(つまびらか、明瞭に思惟する)との二義を兼ね有して他の七識に勝っているから末那(意)という。思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審らかに根源的な心であるアーラヤ識対象として、それを自分であると考えて執着し、自分の都合でひたすら自分中心に、自分のことだけを思い量り続けるのです。
多人数で撮った集合写真でも、或いは数人で撮った写真を手渡された時でも、多くの人は先ず最初に自分を確認して、それから他の人物に目が移って行くのが普通でしょう。これは無意識の心であるマナ識が働いているからであると、唯識は考えるのです。
煩悩を湧き出(い)だすマナ識は、人間を苦悩し続けさせるのでありますが、一方、このマナ識があるからこそ、真理に目覚めたいと言う欲求が生まれ、そして信心の世界、悟りの世界へ導かれると言ってよいと思われます。
マナ識に関する太田久紀師の説明を紹介します。
人間はどのように存在しているかという点を掘り下げたのがアーラヤ識であったのに対し、マナ識はアーラヤ識の上に働き、アーラヤ識に関わってゆく歪ん(ゆがん)だ生命の動きを掘り下げたものである。マナ識の"末那(マナ)"とは、梵語の「マナス」というのを音写したものである。その点、梵語の「アーラヤ」を"阿頼耶"と書いたのと同じやり方である。マナスとは「思い量(はか)る」という意味なので"思量"識ともいい、"こころ"を表わす心・意・識という語を厳密に使い分ける場合には"意"を当てます。
『法相(ほっそう)二巻抄(じょう)、良遍著』には、「凡夫の心の底に常に濁りて、先の六の心はいかに清くおこれる時も、我が身、我が物と云う差別の執を失せずして、心の奥は、いつとなく汚(けがる)る如きなるは、この末那識のあるによりてなり。」と記されています。(末那(マナ、ひがめる心)は、阿頼耶(アラヤ)の見分(主観的に認識したもの)にむかって、これを、「我」、我と思う。この外に物を知ることなし。(ひたすら自分に愛着し、耽(たん)着(ふける 熱中する 度をこえて楽しむ)し、他を認めがらぬ我執の心)
第七識・マナ(末那)識に相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩です。
最初に我癡、我癡は一切の煩悩が起るいちばんの根本であります。我癡は愚かさであり、真理を知らないことですから、無明というのも同じものです。
私たちが迷い苦しむ様子をお釈迦様は十二に分けて説かれました。これを十二因縁と申します。これを学ぶと迷いを起こすしくみがよく分かるのであります。奈良康明先生の『般若心経講義』のなかで次の六つにまとめられます。無明(無知)、愛(渇愛、根源的欲望)、取(執着)、有(迷いの存在)、生(生まれ)、老死(苦)の六つです。無知から渇愛が生じて、執着になり、迷いを作り出し、生存してやがて老いて死ぬというものです。なにも分からない無知から、目に触れたもの、耳に触れたものに、欲望を起こして、それが更に執着になり、迷いの存在となって、生を営み、やがて老いて死ぬのです。
一番の原因は、無明、無知であるということです。根本は無明なのです。何を知らないのかというと無常であり、無我であるという真理を知らないのであります。一切は無常であるのにいつも有り続けると思ってしまい、私という独立したものがあると思い、私の物をもっと増やしたいと思って苦しみを造り出すのです。
苦しみの原因は、無常であることを知らない無知、無明にあります。これを「我癡」といいます。
「我見」とは、「自分は正しいと思いたいために自己を正当化する心、主観です。仏教では、「何が善で、何が悪か」について、詳しく説かれており、仏教で説かれている通りに、「まっすぐ」に「忠実」に「素直」に、受け止めなければなりません。しかし、私達は判断基準を都合のいいように曲げてしまう習癖があります。この「習癖」こそが「我見」の本質です。
三つ目は「我慢」。我慢は人に対して奢り高ぶることです。『広辞苑』では、@「自分をえらく思い、他を軽んずること。高慢」という意味があり、A「我意を張り他に従わないこと。強情。」という意あって、B「耐え忍ぶこと。忍耐。」という意が載っています。慢は、自分を他人と比較して、心の高ぶることをいいます。
七慢というのがあります。慢=自分より劣ったものに対して、自分の方がすぐれていると思う。過慢=自分と対等のものに対して、潜在的に自分の方がいいと考えている。自分よりすぐれたものに対して、自分と同じだと思う。慢過慢=自分よりすぐれたものに対して自分の方がすぐれていると思いこむ。我慢=自分にこだわって、自分の方が相手よりすぐれていると思い上がる。増上慢=まだ分かっていないことを、さも分かっているかのようにふるまう。卑慢=自分よりはるかにすぐれた者に対して、たいしたことはないと思う。邪慢=自分に全く徳がないのに、徳があると思いこむ。の七つであります。思い当たるところがあるでしょう。
四つ目は「我愛」です。私共は無意識のうちに自分を愛しているものです。
盤珪禅師は「一切の迷ひは皆身のひいきゆへに、迷ひますわひの。身のひいきせぬに、迷ひは出来はしませぬわひの。」と仰っています。一切の迷いはわが身のひいきより起こるというのです。わが身をかわいがるから、気にいったものを欲しがり、気に入らないものを退けようとするのであります。いかに善意のようにみえても、その善意の底にもどこかに我愛があるものです。我癡、我見、我慢、我愛が煩悩の根本です。 |