6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2569)

 「自然法爾、赤い風船」田久保園子(作)日本仏教看護・ビハーラの会、2024編集 合同会社 風来舎
 園子は太平洋戦争の始まった年、佐賀県の浄土真宗の寺に生まれました。
 そして戦争が終わって五年目、小学校3年生の夏休みの直前に臨海学校のための検診で肺に影が見つかりました。その日から、寺の離れの小部屋の籐(とう)のベッドの上でただただ天井を眺めるだけの毎日が始まりました。あの頃……、身も心も熱いフライパンの上で焼かれるような、不安と恐怖の日々。
 当時は、肺結核で多くの人が死んで行く時代でした。半年を過ぎる頃には「このまま死ぬ、自分がなくなってしまう」 という恐怖心にとりつかれていきました。
 九歳の時の「死」のイメージは、近くの城跡にあった古井戸にどこまでも落ちていくというもので、そのような夢を何度もみる怖さでした。悲鳴をあげて目を覚ますと両親がいました。
 母が汗と涙をふいてパジャマを取りかえてくれながら背中をさすってくれました。
 父がそばに座って黙って私の話をきいてくれました。そして父が言いました。
 園子、「いのち」は死んでも決してなくならないんだよ。ただ新しく生まれ変わるだけなんだ。
 園子、いいかい? 光輝く大空に、青や黄色、赤や白の風船があるとしよう。
 青い風船はお父さん、黄色い風船はお母さん、白はお姉さん、そして赤いのは園子、お前だよ。
 今は風船には空気がいっぱい入ってパンパンに膨らんでいるけどパーンッと破裂してしまうかもしれない。 ほら見てごらん。 この青い風船をちょっと割ってみるよ。
 「風船はパーンッと割れました。」
 園子、風船が割れたでしょう。 でも、中に入ってた空気はどこに行ったのかな?
 そう、空気は外に出たよね。そして外の空気と一緒になったでしょう。 風船の中の空気はなくなってしまったんじゃない。外の空気と一緒になっただけなんだよ。
 「いのち」は同じなんだよ。 からだがなくなっても形が変わるだけで中の「いのち」は外の「いのち」に合流するだけ、仏様の「おおきないのち」と一緒になるだけなんだよ。
 園子、仏さまの「大きないのち」と一緒になった「いのち」は また新しい「いのち」を創るはたらきになるんだよ。だから、死んでも「いのち」はなくならないだ。たとえ赤い風船が割れても、「いのち」は「おおきないのち」に包まれて いつもみんなと一緒にあるんだよ。
 …………それを聞いて園子の死のイメージが、ガラリと変わりました。
 人はだれしも死んだら終わりではない。 からだが無くなっても、新しい「いのち」のはたらきとなって 二度と死ぬことはないということを知ったからです。そして、今も「大きないのち」に包まれている!
 「あー、よかった」と、安心感でいっぱいになりました。目の前が明るくなって こころが大空いっぱいに 広々と開かれていくようでした。

 仏教はいつも、「私は、今、ここに、生きている」と受け止めます。そして、自分が、気づく・気づかない、に関係なく「縁起の法」(空、無我・無常)を生きています。即ち、無量の因や縁が仮に和合して、今の一瞬(一刹那)をいかされて、そして一瞬、一瞬を生きています。そして一刹那ごとに生滅を繰り返して命を維持しているのです。ですから、固定した私は存在せず、無我・無常で変化しているのです。それは宇宙中の存在は「エントロピーの法」(濃度の濃ゆいものは、必ず拡散する)を免れるものはいないのです。
 エントロピー増大の法則にしたがうのであれば、秩序だった生命は存在しえないのですが、なぜ存在しているのか? それは生命を生かし、支える内部構造が先回りして自らを壊し、生成(再合成)を繰り返しているからなのです。そのことを生物学者福岡伸一さんは「動的平衡」と呼んでいます。
 例えば、血液の一成分の赤血液は寿命が120日。日々一定量を脾臓で壊し、骨髄で再合成して赤血液濃度が維持されているのです(まさに自転車操業)。全ての細胞は寿命の長短はあるが同じ機序です。
 別な視点で、身と心で成り立つ私は様々な人と関係しながら、自らを壊し、新しい自分を作っている。常に変化しているので、今の私自身に変化しない個体的な本質はない(無我・無常)。つながり(縁起による関係性)の中から生じる想いが連鎖し、秩序が保たれていること。それが私たちの生命の本質なのです。
 (縁次第ではいつ死でもおかしくない死に裏うちされて生が維持されています)生命現象は遺伝子レベルでは30数億年の連鎖でつたえられていて、全ての生物は多くの遺伝子を共有していて、生物の仲間です。人類では次のような事実が過去には何度も経験されてきているのでしょう。
 「罪業は深重なりとも」 金龍 静著 いかなる状況でも生き抜く、極限状態でも生きぬく力 ひとりふたり、くらしと仏教 ‘99年冬,法蔵館
 十年ほど前,福井県板井郡のある寺院で過去帳を見る機会があった。各年は、半紙1枚ほどの死者数だが,天明期には、2年にわたって数十枚の紙数が費やされていた。どのページも,法名・俗名・年齢の単調な羅列。だが、さすがは町の文化財。どんな小説より圧倒的な迫力をもって、無言の告発していた。まず子供たちが、続いて老人が、女性が、ダツ―と無機的に記されている。これはおとぎ話ではない。二百十年ほど前だからおよそ六・七代前の先祖の人々が、実際に体験した事実である。おそらく、「清く,正しく,美しく」がモットーの家庭は,まず全滅だろう。
 人の物を盗んででも食いつなぎえた者だけが、生き残る世界。平成の私たちに命をつないでくれた先祖は、親殺し・子殺し・妻殺しの地獄図の中をくぐり抜けてきた人々だったのである。外国のある報告書では、この種の体験者は,容易に生殖機能を回復できず、自滅の道を歩んでしまうケースが多い、と記されている。
 深すぎる心のキズを負った北陸の人々は、ボロボロになったいのちを、いかに癒していったのか。当時の人々にとっての教典は、蓮如上人の「御文」(御文章)だけであった。暗記しているものといえば、「たとひ罪業(ざいごう)は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますへし」のほかには、どれほどもない。頭の中ですますことが可能な「機の深心」の理解ならば、どんなに幸せなころだろう。「罪悪は深重」そのものの地獄図を体験した人々は、「かならず弥陀如来はすくひまします」のわずか十数文字だけを唯一の支えとして、以後の過酷な人生を、かろうじて生きぬいていった………と、私は思っている。(引用終わり)
 人は知る、知らないに関係なく、全ての人は「縁起の法」を生きているのです。
 あるがままの相(すがた)は無我・無常・空、自然なのです。生命現象を研究して、その結果を応用して医学は治療を行っています。しかし、不老不死が実現できれば、人類は地球の悪性腫瘍(ガン)になるでしょう。仏教の生死(しょうじ・まよい)を超える道は、明るい未来を夢見て生きるのも大事でしょうが、今、今日が未来の準備状態(手段・方法・道具)で過ごすと必ず空過流転になります。その虚しさを超える道は、日々を満たされて生きること(存在の満足、知足に目覚める)であると教えます。仏の智慧で日々満たされる方向性で生きる時、自然と明日、未来のことはなるようになると「お任せ(未来の夢は邪魔にならない)」に転じるのです。
 ヘレンケラーとサリバン先生の経験から、動物から人間へは言葉を知ることで劇的な変化があることを知ることなりました。しかし、釈迦の悟り目覚めから、言葉による分別思考は、知らないうちに分別の牢獄に閉じ込められていたことを知らされ、その解放(悟り・目覚め)される世界を知ることになったのです。無分別智(仏の智慧)は分別思考の世界を包含しながら、超える世界を教えているのです。
 「南無阿弥陀仏(汝、小さな殻を出て、大きな仏の世界を生きよ)」は仏から私へ一瞬、一瞬に目覚めを促す呼びかけの言葉です。よき師、よき友を通して南無阿弥陀仏の心に触れる歩みの中で、人間の豊かな精神生活への先人の仏教文化の蓄積に感動するでしょう。

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