8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2569)

 釈尊が世の無常を感じて出家し、修行僧となり悟りを開かれた、として伝えられているのが仏教です。今日まで時代、地域、社会、民族を超えて伝えられるのはどうしてかと考えてみますと、人間が無意識に身に着ける分別思考の問題点を指摘して、それを超える道を教えてすべての人が、仏の智慧(無分別智)をいただけば、心豊かに「私は私でよかった」と救われる道を教えているからでしょう。
 しかし、世間的にみると自我意識のはからいで世間の世俗化(物の豊かさ、生活の快適さ、楽しさ、苦が少ない、好奇心を満たすなど)の中で仏教は少数派になっています。宗教という名で、目覚め,気づき、悟りではなく、世俗化を満たしてくれる祈願の対象、手段・道具みたいに考えて普遍的宗教に尋ねようとする動機付けが薄いのが現実です。
 私もよき師との縁を通して仏教の学びを続けてきていますが、仏教に出遇う前の大学生の時、仏教が全く分かっていないのに傲慢にも、漠然と「科学技術の進歩で、現代では仏教の役割は終わった」と考えていました。
 仏教の学びを通して、仏教はいわゆる信じ込むものではなく、分別思考の問題点に気づき、その目覚め、悟りの、分別を超えた無分別智(仏の智慧)との接点をも持ち続け、仏智に照らされながら世間の現実を対処しながら生きる道だと受け止めています。
 お経(重誓偈)の一節に「猶若(ゆにゃく)聚墨(じゅもく) 日月(にちがつ)摩尼(まに) 珠光(しゅこう)焔耀(えんにょう) 皆悉(かいしつ)隠蔽(おんぺい)」があります。その心は、仏の世界の素晴らしさの広さ・深さを褒めたたえて、太陽や月の光も摩尼(まに、宝の珠(たま))の輝きも〔み仏の輝きの前には〕影(かげ)をひそめ、墨(すみ)のようにさえ見えます)という意味です。
 大分県宇佐市の出身で東本願寺の大谷専修学院の院長を長くされ、多くの仏教者を育てられた信國淳先生のことを安田理深師がお話の中で語られています。
 「本願に遇うとかね。あるいは神の声に出会うとか。神の呼びかけに出会うとか。そこにはやっぱり人間がこれまで人間という世界に閉じこもっておったものが、そこから呼び出される。そしてそれは一つの決断ですね。仏教でも「観仏本願力 遇無空過者(仏の本願の教えにあう者は、人生を空しく過ごす者はいない」と。つまり実存というのは一方的じゃああかんのです。(仏)道というものがわれわれに出会うんです。それで道が成就する。道が我々に出会わせて、我々というものを変えることによって、道が人間に生きてくる。道から人が生まれるんです。
 また人も道に会うことによって初めて自分になる。道に会うまでは「人」ということが言えんのや厳密には。
 これはちょっと横の話ですけど、具体的な話ですが。信國さんという、この人はよく最近は来られんですけど、あの人がやっぱりリバイバルによって親鸞に、一つの信仰というものに立ったんです。信國さんが結婚して間もないころですよ。奥さんと一緒になって、新婚時代、池山英吉先生に会った。それまで非常に魅力であった文学などが、なにか砂を噛むようなものになってしまった。猶若聚墨と。光って見えておったけど、精神の光にふれてみたら、墨のようになってしまったと。
 消えたわけじゃないのです。まったくどうでもいいものになってしまうと。そういうものです。道に出会うということは。
 道に出会わん前は楽しいものが最高だった。しかし道に触れたら、楽しいものは、まぁ悪いものじゃないけど別になくてはならんものではなくなったと。道に触れるなら、苦しいものでもそれを求める。道を忘れさせるものなら楽しいものでも無意味だと。こういう変化が起こるわけです。そういうことを信國さんは池山先生との出会いで経験したんだろうと思います。
 池山先生というかた。これは信仰に生きた人だ。信國さんはその人に、「出会い」です、真理に出会うといっても真理に生きた人に出会ったんだ。真理に生きた人を通して真理に出会うんです。生きておらん真理なら観察もできるけど、そうじゃない。池山先生を通して真理に触れた。池山先生に会った信國さんは、彼はフランス語の先生ですけども、その時、フランス文学だのなんだのというものがね、一挙に魅力を失うんですわ。猶若聚墨(ゆにゃくじゅもく)といってね。消えるわけじゃない。真理にふれて教理とか文学とかが消えるわけじゃないんだ。ただ、味気ないものになってしまう。昨日まであんなに魅力を感じていたのにと。
 「道に出会う」というのは、そこに往生ということがある。往生の大道があると。この道だと。それで信國さんは奥さんにやね、わしはこれから行く道が見つかったと。おまえはどうすると。ついてこようと別れようとおまえの自由だと。ご自由にと。こういうようなことを若い信國さんは奥さんに言った。すると奥さんは泣いちゃったんだね。どうぞご自由に、と奥さんに信國さんが言ったもんだから。つまり新婚生活だの愛だの、そういうことがまったく興味のないものになってしまったわけです。燃えていたんだろうけどね。そういうものです、「出会い」というのは。それで、信國さんの奥さんも求道者になられたのです。なにかそこに傍観できんものがあるわね。やっぱり、われわれは歴史を生きんならんです。傍観しとらんで。生きている歴史に出会えば自分もその中にーーそれを参与という。ティリッヒという人がいますが、あの人がよく使う概念です。参与です参与。参加するといってもいい。生を共同するんです。歴史を生産していく。歴史にうまれ、また歴史を生んでいく。もう個人というものがそこにはないんですわ。
 そういう時にはじめて、われわれはね、使命というものがそこにある。自分の好きなようにするということは、なんかいいようだけれども実はつまらんものなんだ。自分の自由になればなるほど実はつまらんもんです。そうじゃない。使命というのはやりたくなくてもやらんならんというものです。やりたいかやりたくないか、やれるかやれないかを超えて、やるという。生きていることに自分の興味でどうにもならん、そういうものを使命というのです。使命。それを清沢満之先生は本分と言ったんだ。使命。人にはそういうものがあるんだと思うですね。どうしても生きんならんものがある。好き嫌いを超えてね。で、そういう時に力が出てくるんじゃないかね。何でもわしの自由だというような時には力は出てこんでしょう。
 自由自由と、何でも自由だと言ってふんどしも取ってしまってみなさい。力は出てこんですわね。あんまり自由で。ふんどしを締める、拘束やわ、そこにはじめ力が出る。ふんどし取ったら力が入らんでしょう(笑)。そういうように、拘束されるときに自由が動くんですわ。
 なにもかも自由だとなればそれほどつまらんことはない。そうじゃないかね。それで、「必由」という言葉があります。曇鸞大師の言葉にね。つまり必由なんだ。
 必は必然です。必然に由ると。あるいは必然が自由だと言ってもいい。必然をもって自由となすと。
 せんならんことをいやいやするんじゃない。喜んで引き受けると。それは自由でしょう。しかも必然でしょう。だから「必由」と。いい言葉だ。そんなことで、「行道」ということ。道を行ずる。

(C)Copyright 1999-2025 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.