1999年4月1日公開

2025年3月2日更新

    
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  私(自我意識)の視点と仏(無分別智)の視点安田理深師は「願生浄土」(p237)の中で、 人間には真実も不実もあるのでない。人間にあるのは不実である。真実は如来だけにあることである。如来の上にはじめて真実ということが出来る。我々に真実があると思うから真実を見逃すのである。それで如来即ち真実とある。如は真、来は実。、如は不顛倒、来は不虚偽。不顛倒は法について、不虚偽は衆生に着くのである。法性にかなうは不顛倒、衆生を欺(あざむ)かぬが不虚偽である。こういう定義は誰にも出来ることではない。殊に、真にしてかつ実であることが明確に定義されている。
 一如にかなう。一如の法性にかなうところに真がある。仏法の真実を世間の真実であらわすことはできない。何が本当か何が嘘か。その価値を仏道において標準が見いだされなければならぬ。ある意味からは価値の転換である。そうでないと、仏法に触れたのとは変わらぬことになる。過失についても罪悪についても、自覚に相応して罪が認識される。世間の罪をもって仏教の罪を言うことはできない。仏法においては本願を疑うことが罪が一番重いが、世間では罪ではない。このように、価値は自覚に応じて転換が起こるのである。

 以下は田畑のメモから(出典は??) 『無量寿経』の第十八願文には、五逆罪と誹謗正法罪を犯した者は救いから除くという、いわゆる唯除の文が置かれています。古来多くの先達がこのことに悩まされてきましたが、結論から言うと、阿弥陀仏(法蔵菩薩の願心)の救いの自覚内容がこの唯除の文によってあらわされているということになります。
注:五逆罪とは五種の最も重い罪で、(1)父を殺すA母を殺すB阿羅漢を殺すC仏の身を傷つけ血を出す(5)破和合僧(はわごうそう、求道者の和を破る)通常私どもは自分自身を善人と思っていますが、阿弥陀仏の大悲によって自分自身の本質を照らされてみると、五逆罪と誹謗正法罪という救いようのない大罪を抱えている身であることが知らされます。ただし、大事なことは、それは自分の自覚なのではなく、阿弥陀仏ご自身の自覚だということです。自分の自覚なら絶望でしかありませんが、阿弥陀仏が、「あなたは自分を善人と思っているかも知れないが、私の目から見れば、自分のことしか考えられないエゴイストなのです。でもそれはあなたがどんなに避けようと思ってもどうしても避けることのできない宿業です。私はそのことがよくわかっています。だから私はあなたのその罪業を決して責めず、あなたが自分の罪業でありながら引き受けることもできずに苦しんでいるあなたに代わって、私はその罪業を私自身の罪業として自覚し、罪業の自覚そのものとなってあなたの中に生れ、永遠にその罪業の身と私の身を一つにして歩んでいきます。」と呼びかけています。その同体の大悲の呼びかけが唯除の文なのです。だから、唯除の文は、私に対する阿弥陀仏の救いの呼びかけなのです。曇鸞や親鸞は、この文がなかったら自分自身の救いはなかったと考えておられたに違いありません。

 五逆罪と誹謗正法罪はどのような関係にあるのか?
 五逆罪と誹謗正法罪という二つの罪の関係は、どのようになるのでしょうか。曇鸞は、『浄土論註』の中で八番の問答によってこのことを尋ねています。いわゆる八番問答と呼ばれているものです。親鸞も、この問答を『教行信証』「信巻」の終りに引文していますから、曇鸞と同じ考えであったことがわかります。
 結論から言えば、誹謗正法罪の方が五逆罪よりもはるかに重い罪だということが述べられています。すなわち、五逆罪は阿鼻地獄一劫の罰で尽きるが、謗法罪は一劫尽きれば転じて又他方の阿鼻地獄に至り「かくのごとく転々して…仏出ることを得ることを記したまわず」という恐ろしいことを書いています。つまり、謗法罪は、永遠に助からない罪だということを強調しているのです。これは曇鸞や親鸞自身の自覚内容です。そして、後に述べますが、これが『歎異抄』で言われているところの「他力をたのみたてまつる悪人」の自覚内容です。
 そのことに対して問いがあって、「謗法罪は、別に誰かに対して危害を加えるわけではない。それに対して、五逆罪の場合は、実際に人を殺傷してしまったりする。だから五逆罪の方が罪が重いではないか」と問うています。もっともな問いですが、それに対して、曇鸞は、「あなたはそういうふうに言うが、五逆罪の元に謗法罪があるということを知らない。謗法罪は誰の中にもある本質的な罪です。それが元になって五逆罪を起しもするし、またたとえ起さなくても、その罪は誰もが抱えている罪なのです」と答えています。
 ただし、この謗法罪は、阿弥陀仏の呼びかけによらなければ決して分からない罪です。五逆罪の場合は、道徳的にも罪だということは誰にも分かります。しかし、謗法罪は、阿弥陀仏に呼びかけられて初めて知らされる罪です。普通はそれが罪だということは誰も思わないし、自分でも思っていないのです。教えを聞く中で、初めてそれが罪であり、しかも最も根本的な重罪であるということを知らされるのです。
 そうすると、私どもはそれを改めないといけないと言われているように思ってしまいがちです。しかしそうではないのです。阿弥陀仏は、その罪の重いことを知らせるけれども、それを改めよとは決して言われないのです。なぜなら、その罪は、改めようとしても決して改めることなどできないということを、阿弥陀仏はよく分かっておられるからです。それは、山を動かそうとしても、動かすことができないのと同じです。
 私どもは、一人残らずその重罪を抱えています。それが誹謗正法の罪です。唯識教学では、これを無意識の層に持っている倶生起(くしょうき)の我執と教えています。我執にも、分別起の我執と倶生起の我執とがあり、分別起の我執は、生まれて後に習得する自我意識の我執であるのに対して、倶生起の我執は、生まれる以前から、この身の奥深くに植え込まれている無意識の潜在的な我執です。私どもは、一人残らず生まれる前からそういう根本的な我執を抱えているというのです。

 道理をもって、(どちらの業が)軽いか重いかを比較することにしよう。(業の軽重は)「心に在(あ)り」、「縁に在り」、「決定に在る」のであって、時節の長い短かい、多い少ないにあるのではない。
 どのように「心に在る」のか。かの五逆・十悪などの罪をつくる人は、自ら虚妄顛倒(いつわりさかさま)の思いにとらわれて罪をつくる。南無阿弥陀仏の念仏、念仏の信心は、善き人がいろいろ手だてをつくして慰(なぐさ)め、実相の法(即ち名号)を説かれるのを聞くことによって生じる。一方は実(まこと)、一方は虚(いつわり)である。どうして比較できようか。(信心の有無が問われている)
 たとえば、千年このかたの闇室に、もし光が少しでもさしこめば、そのときたちまち明るくなる、というようなものである。闇が室に千年あったからといって、どうして(闇が)室をはなれないということができようか。これを「心に在る」というのである。
(本来性を失って(不実・虚妄)いたための苦しみに気づき、本来性を回復の感動(無分別智)となる)


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